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留年制度は最終的には飛び級制度を狙った布石なのではないかと邪推してみる


今日、大阪でアツい議論が繰り広げられていた模様です。
「大阪の教育」ガチ熟議!

先の府知事・市長ダブル選挙で大阪維新の会が勝利をおさめ、教育基本条例などを通して、公教育や教育行政のあり方を問い直す議論が提起されています。歓迎と反発の声が両方聞こえる中で、私たちは、賛成・反対という二項対立を超えて、様々な立場や考えの人たちが出会い、対話できる場を持ちたいと考えました。
多様なステークホルダーが、大阪の教育の現状を学び、問題意識を共有し、積極的・建設的に対話・議論を重ねることで、大阪の教育に主体として責任を持って関わっていく人が増え、大阪の教育がよりよくなると考え、そのための第一歩として、今回の熟議を開催します。

この日、この時間をともにすることで、集まった皆さんが、線でつながり、面となること。
そして、ともに学び、対話を重ね、大阪の教育の「よりよい未来」を創造するエンジンとなることを願って。

 

よーし、んじゃ僕もセルフ熟議してみるぞ

 

参加できなかったのが悔しいので、一人フィリピンの自室でセルフ熟議してみることにしました。

 

まず僕は、

留年制度の議論の先には飛び級制度があって、
それを目論んだ上での展開なんじゃないかと邪推してみたりするスタンス

です。

 

まずは基本的な知識をWikipediaさんから得ておきましょう

 

高等学校以下の学校(小学校・中学校の義務教育)では生徒は平等に扱わなければならないという観点から、いかに優秀であろうと年齢による標準的な学年上限を飛び超える飛び級は絶対に認められない。逆に原級留置や就学猶予や過年度生(浪人など)もまれである。

ということです。

個人的には、
「他の子よりも努力して成長していっている子供を強制的にレベルの低い子と並べる事は決して平等ではない」
と思っています。

 

「落ちこぼれ」という言葉はよく目にしますが、実は「浮きこぼれ」という言葉も存在します。

浮きこぼれ

一般的には、通塾などによって高い学力を身に付けた生徒や、もともと学習意欲が高い生徒が、通常の学校の授業内容に物足りなさや疎外感を持ったり、実際に他の生徒から疎外されたりすること。吹きこぼれとも言う。学業不振の生徒を「落ちこぼれ」というが、それの対義語として使われる。

 

そもそも、留年制度というものは単体で捉えると非常にネガティブなものです。
どれだけ頑張っても現状維持(普通に進級)なのに、頑張らなければ留年する可能性がある。
こんな仕組みでモチベーションを高めることができるわけがありません。

では、なぜこんな仕組みを提案したのか。
ここがポイントです。

 

僕が出した結論は、

留年制度を提案することが目的ではなく、
年齢主義から課程主義への転換を図ることを目的としている。
※本当は飛び級制度を提案したいけど、今は提案出来る状態ではない。

というものです。

 

年齢主義と課程主義

 

この話をする上で、年齢主義と課程主義について大体の把握をしておきましょう。

年齢主義

年齢主義の制度においては、在学者の学習段階を考慮せずに一律に進級させることになるため、同じ年齢の生徒が同じ学年に所属し、同年齢集団を形作る。また、成績の良し悪しによって所属する学年が変わらないため、原級留置になったことによる敗北感・劣等感を与えないということもある(もっとも、原級留置になったことによって劣等感・敗北感が生まれるかどうかはその文化圏によって違うが)。体力・社会経験などを考えると、小学校段階、あるいは中学校段階までは同年齢集団での教育が望ましいとの考え方もある。同じ学年に学力が違う生徒が所属することによって起こる問題については、成績不良者に対する補習、成績優秀者に対する拡充(発展的な授業、エンリッチメント)、習熟度別学級編成、入学者選抜などの、能力別教育を実施することによって緩和され、ある程度個人差にあった教育が可能である。ただし逆に言えば、こういったフォローがしっかり行われないと、学業不振者を見捨てることになる制度でもある。

要は、従来型のスタイルですね。

 

課程主義

課程主義の制度においては、学力を基準として学習集団を作れるため、学級内の学力の水準は同質であり、授業がすすめやすい。また、選択的不登校や身体療養などのための休学の後も、学年は自動的には進級していないため、自分の年齢に追われずにゆとりを持って教育を受けられる。また、年度末生まれなどで発達がゆっくりしている児童でも、就学猶予や低学年時の原級留置を行うことにより個人のペースにあった授業を受けられる。また、年齢主義制度で見られる、補習授業や拡充授業を行う際の、同年齢集団から同学力集団を抽出するという手間が存在しないため、学校側にとって教育課程の運営がしやすい。またこれは副次的な効果であるが、異年齢学級では学力的には等質でも社会体験の異なる集団での学校生活となるため、現実社会と同様な場を作れる。また、低年齢で高い学年に飛び級できる制度のもとでは、低年齢で上学年・上級学校に行くのは心身発達の面で生徒にとって好ましくないという説もある(ただし高等教育段階では悪影響は少なく、アメリカ合衆国では大学早期卒業者の将来は良好なようだ)。

こっちは、今までに無いスタイルです。
僕は課程主義のほうが良いのでは?というスタンスです。

 

年齢主義の問題点

 

年齢主義の問題点から探っていきたいと思います。
まず、平等であることを前提にしてるのにも関わらず実質的に平等ではない点に問題があります。

現に「落ちこぼれ」を補習などでフォロー出来ているかといえば出来ているようには思えませんし、
「浮きこぼれ」は放置です。嫌なら習熟度別学級編成の私立に行け、という雰囲気ですね。
習熟度別学級編成も、規模が小さければ意味がありません。
都会でも少子化でクラス数が減っている現状ですから、現実的ではないでしょう。

 

課程主義の問題点

 

課程主義にある問題は、参考資料があまりにも少ないところです。
そのため、いざ踏み出した時に何が起こるのかわからなくて怖い。
という点が指摘されています。

留年制度単体における課程主義においては、
年齢主義が前提にある以上、劣等感を生み出す可能性こそあれ、
勉学へのモチベーションを高める要因にはならないのではないかと考えます。

 

話は戻って、ではなぜ飛び級制度を提案することができないのか

 

前述している通り、留年制度単体での課程主義には問題がありますが、
飛び級制度を併用することで問題点は解決されると考えられます。
留年制度単体の採用は、課程主義を装った年齢主義に他ならないからです。

それでは本質的な問題は解決することができません。
飛び級制度を併用、もしくは飛び級制度単体での採用ならば、
劣等感を生み出す可能性はありませんし、勉学へのモチベーションを高める要因になるでしょう。

 

しかしながら、飛び級制度を採用するためには高等学校及び大学の受験資格の改正が必要になります。
現在飛び級を認めている大学も存在しますが、「特別な能力を有する者」という条件になっており、
基本的には年齢主義を踏襲した受験資格になっています。

 

まずは高等学校及び大学側の協力が不可欠

 

マイノリティでは意味がありませんので、日本全国の高等学校と大学からの協力が不可欠です。
課程主義への転換を図り、受け入れる体制を整えることが約束されて初めて飛び級制度は現実味を帯びます。

まだその時が来ていないから提案が出来ない状態なのだ、と僕は考えました。

 

そのために必要な事は?

 

十分な議論に尽きると思っています。

日本においては、年齢と学習段階のどちらを基準にして進級すべきかという方面の教育制度については、1947年の学制改革以来約60年間にわたり以前の習慣にならう意識が強く、その改革や研究についてはあまり話題にならなかったため、各用語はあまり意味が整理されていない。

 

今、大阪は全国から注目を集めています。
今回教育問題について熟議を行うイベントが開催されたのも、注目度の高さを証明していると言えるでしょう。

敢えてデメリットが大きくて、しかも制度として採用されちゃいそうなラインを打ち出すことで、
この問題について一石を投じたと。

 

橋下さんはよく「対案」を求めますが、
・対案として「飛び級制度」が出てくること
・飛び級制度に対して各高等学校や大学側からの協力表明が来ること

このあたりを目論んでるんじゃないかなぁ~と邪推したわけです。
なんにせよ議論が活発化するのは良いことなので、良い方向に進んでいってほしいですね。

 

以上!セルフ熟議でした。
※イベント行きたかった・・・